「修学」旅行

2016年04月12日

しばらくすると中三は修学旅行です。

修学旅行。日本独特の慣習です。

今年は、南中がディズニーシー!すげーぞ!ディズニーシー!

「修学」って「学問を修める」って意味じゃなかったっけ。ディズニーシーで学べる学問って何だろう。

だいたいディズニーシーならこれからいくらでも行くだろうにってことを意地悪く言ってみたら、ある3年生の生徒が、「今、学校の仲間と行くところが重要やねん。」と答えました。

なるほど、なるほど!一理ある!納得できる理由です。

自分のする行為を「好きだ、嫌いだ」以外に、ある価値基準を用いて意味付けし、理由を表明できるようになることは、精神の進歩を表しています。

さまざまな知識を吸収したり、他者の価値基準と意見を広く交わし合う経験を積むことが、無知ゆえの偏見や想像力不足からくる不寛容な態度から脱し、人を精神の自由へと向わせます。

ちゃんと生徒は成長しているのだと感心もしましたし、生徒から教えられることはまだまだある、ということを嬉しく思います。

で、「みんなと経験することが重要なら、今までのように沖縄で民泊させてもらったり、ガマや姫ゆりの塔で現地の人から直接戦争の話を聞くことでもいい経験ができるんじゃないの?」とさらに意地悪く返すことはしなかったわけです。

ま、ディズニーシーなら事故や迷子の可能性も小さいし、学校側は管理しやすいということでしょうかね。どうでしょうか?

「修学旅行」はもともと東京師範学校の校長だった高峰秀夫が、師範教育に軍隊的要素を導入しようとする明治政府に抵抗する意味で、「行軍」旅行ではなく、学術研究の要素を込めて「修学」旅行と称したことが始まりだと言われています。

そもそも反「軍」、反「戦争」的色彩があったわけです。

その意味からすれば、広島や長崎、鹿児島や沖縄で歴史を体験的に学ぶ、という経験は、修学旅行の本来の趣旨に合っているようにも思えるのですが。実際生徒たちは70年前に何があったのかを聞くとき、ほかのどんな時よりも真摯な顔つきで聞くものなのですが。このへん、屁理屈臭いか?

ま、いいか。

靖国神社行って歴史も知らずに涙するよりゃましか。

どこへ行こうが修学旅行が思い出に残るものになりますように。