終戦の日(あるいは夏休みの人権作文)と福島

2013年08月15日

今日もあだち塾は盆休み中ですが、夏休みの宿題である「人権作文」の手伝いのときのこと。

内容に関する誘導だけはしないようにしています。人権という概念についての説明と、人権に関係する社会問題の概要をのべるだけです。あとは生徒が書きあぐねて停滞している場合に、書こうとしている内容の構成や展開へのヒントをアドバイスする程度。原稿用紙の使い方のミスや誤字・脱字のチェックが中心です。

ごく短時間の情報提供で生徒たちは例外なくバリバリ書きます。日ごろ社会問題を深く考える機会の少ないほとんどの中学生にとって、なかなかしんどい作業なはずなのですが、ちょっとした助言と、考える材料をあたえることで生徒はちゃんと文字言語で表現できることに感心します。もともとこの補習は、作文が不得意な生徒対象のものなのですが、

   「書けない」生徒は全員、単なる「情報不足」なだけなのです。

人権に関係する問題は様々なテーマで考えることができます。

生徒たちが選ぶ社会的テーマのうち、2番目に多かったのは「いじめ問題」。これはいじめの被害者が生徒自身とさほど違わない年齢であることから、より身近な問題としてとらえられるのでしょう。他にも「児童虐待問題」、「死刑廃止は是か非か、という問題」など、多様なテーマが選ばれていました。

しかし、なんと言っても1番多かったテーマは、「戦争」。

直接戦争を経験したことは無くても、修学旅行で訪れた九州や沖縄で実際に戦争経験者から聞いた話は、ほとんど無自覚のうちに彼らの心の中の深い場所に、ある種の痛みとなって記憶されているのだと思いました。私たちにはまだまだ希望があると信じられます。

 

さて重い話題ですが書きます。どんな立場の人間だろうが知らんぷりはできません。

今日、8月15日は日本では終戦の日です。(いわゆる玉音放送があった日です。)

東京大空襲。原爆投下。沖縄戦。取り返しのつかない破滅がやってくるまでなぜ私たちは戦争をやめられなかったのでしょうか。僕が知る限り、昭和天皇も、あの東条英機でさえも、その前に戦争を終結させたがっていたのに。

破滅がそこまで迫っていても、不都合なものは見ない、聞かない、思考を停止する。根本的な打開策などありえないのに停止した思考のまま、まさに「何となく」リアルな破滅の到来を許してしまう。その後もなぜ破滅に至ったのかを考えることなく、悲劇の本質は涙という情緒的なものでぼやけてしまう。

私たちは、私は、そうやってこの68年を過ごしてきてしまいました。その結果は現在の日本をとりまくアジアの状況に明らかでしょう。

それと全く同じ構造が、福島第一原発事故の問題にも表れています。事故から二年以上、現在まで超高濃度の放射性物質を地下水とともに太平洋に垂れ流し続けていることが最近はっきりしました。15万人の避難者が故郷を追われています。原発20キロ圏内のうち、除染が進んだとされる地域に一部の被災者が長期滞在許可が下りて再び住み始めています。でも、ほんの20キロ先に、今も放射性物質を垂れ流す「破滅」の象徴がある「故郷の町」に戻ってくる人々に、心からの喜びなどあるでしょうか。あるのは「覚悟」です。

原発事故は何一つ終わっていません。そしてまた私たち、私は不都合なものから目をそらし、考えず、破滅の記憶を薄めてしまおうとしています。そこに今も、現として「破滅」は存在し続けているのに。それは「悲惨だよねえ。」、「気の毒に。」そんな情緒に回収されていいものでは断じてない、私たち、私の問題であるのに。

私たちの心性は68年前から今日まで、何一つ変わってはいない。私の心も68年前から今日までの多くの人々と同じくなんにも変わらない。

しかし希望はあるのです。情報さえあれば立派に自分の頭で考えた意見を書ける中学生が今いるのですから。

くどいですが僕はあだち塾の授業で思想・信条にかかわる情報や、政治的な情報は伝えません。僕にできるのは受験に必要な情報の伝達だけです。しかし、たとえそれが勉強に関する情報であれ、情報の蓄積は必ず人に「自ら考え、表現する力」を与えると既に知っています。

あだち塾の生徒には、いつも自分の頭で考えられる大人になってほしい。

僕も考え続けられる大人でありたいと思います。

堀居