授業で言わなかったことー国語1
中三。英語は受動態がほぼ終了しました。なかなか難解な単元なのですが土台はしっかりできました。まだ不安がある生徒もいるでしょうが、中間テスト前に今度は教科書中心で復習しますのでご心配なく。中3単元は覚えてなんぼの新出単語、連語が本格的に出てきます。すぐ忘れてしまいますので期間をおいてまた覚えなおしましょう。次は一学期大単元の現在完了。次も中間、期末テストで出題され、入試でも必ず出される重要単元ですので先を急ぎましょう。
また、国語の授業が始まりました。聞いたことのないものの見方が述べられている文章を読解し、その見方を使った記述問題が出題されるのが最近の傾向です。これは概念操作という相当高度なことをすることなので、単に答えが合ったからよし、では学力は身につきません。よく出題される分野の抽象的な知識を、言葉は悪いですが「ネタ」として蓄積しましょう。
その意味で、時間の関係で触れなかった関連知識を挙げます。
先日みなさんが読んだ公立高校出題の文章では、「認識する対象は実在するのか」という問題と、「『私』とはいかなるものか」という問題とが挙げられていました。これ、二つとも歴史上、哲学の超大命題なんです。ものすごく多岐にわたる広がりを持つ問題なのでまとめて述べるなんて不可能です。少なくとも僕程度では。そういうわけで今回は「私」に関するほんの一部を。
自分が思っている、「私とは○○だ」という自己評価を「アイデンティティ(自己同一性)」と言います。問題文章中にあった「本物の私」とまあ同じことと思ってください。このアイデンティティ、伝統的な生活様式を私達が営んでいた時代(江戸時代くらいまで)では特に問題にならない自明なことだったのです。だって職業も住んでいる場所も厳重に固定されていたでしょ。例えば「うちは代々農家だし、私も生まれた時から百姓でこれからもそうだ。」から、いちいち「私とは何か」と考えることさえナンセンスだったわけです。つまり私の住んでいる場所も職業も時間的連続性に保証された(代々~)非常に強固なものであるため、自己の内面を自己言及する(私のアイデンティティを私の内の人格や性格に求める)必要がなかったということです。住んでいる村と家族構成とその歴史を知っているだけで十分。だから試しにこの時代の太郎兵衛さんにインタビューしてみましょう。太郎兵衛さんはこう答えるはずです。
堀居:「太郎兵衛さん、『私』とはどういう人ですか。」
太郎兵衛:「はあ?うちはぁ、代々この村で百姓やってんだ。初代庄右衛門が苦労してこの辺開墾して、ほんでそっちの与作さんとことかあっちの喜助さんとかも住みだしたっちゅうこと。オレも八つの頃から田んぼの手伝いしたりしとったが、そのうち隣村の伝兵衛さんとこの娘と見合いして・・・、今爺様、婆様とおっ母と息子二人と娘と七人暮らし、離れじゃ弟一家が住んどるで。」
ね。太郎兵衛さんにとっての『私』とは私の外部に広がる、私をとりまく土地に根ざした関係と歴史なんです。決して「真面目だがちょっとセコイとこもある・・・」などと自分の内面に言及したりはしません。太郎兵衛さんのアイデンティティは揺れ動いたりはしません。彼の外部の場所と時間が強固に保証してくれているのですから。
ところが、近代以降(明治ぐらいかな)私たちはどこに住むか、どんな職業に就くかも制約がなくなり、そして核家族化もどんどん進みました。それは『私』が『私』を表す土地や歴史の後ろ盾から遊離してしまったということを意味します。ここで初めて「『私』とは何者か」という問題を『私』の内面に求めることが必要になってくるわけです。これはなかなかしんどいことです。なぜなら、原理的に言って、「『私』はこういう人間だ」と思えても、それを保証してくれるものはもはや私の外部の存在ではなく、ほかならぬ「私」自身なのですから。あなたたちが読んだ文章の筆者も「認識された自分は『本物の自分』ではない」と述べていますし。
つまり、現代に生きる私達は常に「アイデンティティ」の揺れ、不安にさらされているということなのです。
みなさんが読解した文章中では、「私」は、「私がつくりだしている関係の総和」という存在だと書かれていました。あの文章の筆者は「だから『本物の私』を伝えるには、私が住んでいる地域はどこでそこの人々や家族とどんな関係を結んで暮らしているのかといったことを手当たり次第に話していけば『私なるもの』を認識できる」と述べていました。ここが、ちょっと不親切でわかりにくいところだったのですが、ここまで書いてきたことですっきりわかりませんでしょうか。
つまり、筆者は「自分だけではアイデンティティを安定して保持することができないから、遠い昔に存在していたであろう強固な共同体(村)的なものを現代でも築いていきましょう。」と言っているわけです。ね、こう読み解けばそんなに難しいことが書かれていたわけじゃあない、むしろ過ぎ去って二度と戻らない時代への郷愁に満ちた、ちょっと弱っちくて能天気な意見にも思えてきませんかね。
しかし個人のアイデンティティが、現代でも土地と歴史に基づく『私』の外部に広がる人間関係に、強く支えられているということもまた事実です。このことは例えば・・・
あ、さすがにもうしんどくなりましたかね。ここから先はまた別の機会にでも。